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清水の舞台で人が動くのも見える、京都は今熊野の豊国廟

清水の舞台で人が動くのも見えます、ここは京都今熊野の豊国廟で豊臣秀吉さんの廟所(びょうしょ)、廟所とは、祖先や貴人の霊を祭る場所を指します。
大坂夏の陣、冬の陣で豊臣家は滅亡してしまってからここ豊国廟も風化したそうですので、おおっぴらに豊臣さんとか秀吉さんとか言うと徳川幕府の役人に怒られた事情が推察できますが、明治時代になってきれいに整えられたそう。
昔は悪いことをちょこっとしただけで逮捕から牢屋に入れられて獄死、みたいなのが多いのでまあ秀吉さんには町民も手をだしずらかったのだと、そりゃそんなものです。

豊国廟は慶長3(1598)年、伏見城にて薨去された太閤豊臣秀吉公の墓所です。 御遺骸は遺命によりこの阿弥陀ケ峯に葬られ、山腹には正一位豊国大明神として秀吉公を祀る壮麗壮大な豊国社が創建されました。
しかし豊臣家滅亡後、幕府の命に より豊国社廃祀され御廟も空しく叢に埋もれてしまいました。 幕府崩壊後、明治天皇のご沙汰で方広寺大仏殿跡地に神社は 再興されました。現在の御廟は明治31年豊太閤三百年祭にあたり、 豊国会の手により全国の浄財を集めて造営されたものです。 正面の階段489段 五輪塔(御墳墓)高さ約10m (3丈1尺)

京都女子大の女坂を上ってきて新日吉神宮もさらにすぎて上がっていきます、ちょっと息切れもしますがまだまだ上がります。

一の鳥居に来れば入り口が見えます、あそこから階段がスタートします。

豐国廟
豊臣秀吉の墓所である。

天下統一を果たした秀吉は、慶長三年(一五
九八)八月十八日、伏見城で六十三歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰に葬られた。翌年四月十八日、秀吉は後陽成天皇より、
正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、山腹には境内城三十万坪、社領一万石を誇る壮大壮麗な豊国社が創建された。

以後毎年四月と八月十八日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、盛大な祭礼 (豊国祭) が執り行われたが、慶長二十年(一六一五) 豊臣家が滅びると、幕府は豊国社の
廃止を命じ、以後は墓参する人もなくなった。 現在の廟は明治三十一年(一八九八) 豊太閤三百年祭に際し、豊国会により全国からの募金で
整備されたもので、そのとき墳上に高さ約10メートルの巨大な五輪石塔(伊東忠大設計)が建てられた

なお、豊国神社は明治十三年(一八八〇) 方広寺大仏殿跡地に豊国神社として再興されている。


ここから300段くらいの階段です。

終わったら180段の階段。


ここが豊国廟で左のほうから清水寺が見えます。下の社務所で「登拝」御朱印いただけます。

ところで、秀吉さん、今も昔も大阪でも京都でも人気だったのでしょうけど徳川幕府の時代になるとそれはなかなか大ぴらに言えないのも時代です。
晩年には甥っ子の秀次を高野山に幽閉して自害させたり、文禄・慶長の役など国内を疲弊させたりなどあったのですが、主君織田信長が本能寺の変で殺されたように戦国時代など生死さえも安全かどうかわからない世界で生きているので致し方ないんだろうなとも思います。現在社会でいえば当時の戦国時代のように経営者の命を奪われることはそう多くなく、金を借りても金払わなくても自己破産制度などもあってセーフティネットもある以上まだましと思うのです。

それでも経営者はリスクもたくさん抱える身分なので、連帯保証人でぐるぐる巻きにされているのに、仕事できない口だけ達者なパートなんかが労務関連の文句言ってくると今日今すぐに辞めていいですよと一喝して終えるのもわかります、嫌いにならないでほしいとは思いますけど煩雑なことや人のこともありますが結局最終的な責任を取るのは自分になるので「問題をスルーして聞いてくれない」などいうのはたぶん、「取るに足りない問題を取り上げても成長しない」という判断基準の結果なのでしょうが、話の土台が違うのでベクトルがあわないのは仕方なく。一癖二癖あるのが経営者というのでなく、立場ちがって文句を言われると苛立ちを隠せないのは普通でしょうし、こういうことに真剣に対処しているうちに一癖二癖持てる力がつく、というのが実情でしょう。

・会社を成長させたい、よくしたいという経営者、そのためのリスクは享受する経営者と
・目の前の不満を解消させたいパート、もっと言えば負担は避けて楽だけしたいパート、

になればきっと

「目の前の不満解消しても会社よくならない」という判断基準と、「解消してもたぶんまた不満を持つパートだから、永遠に不満を解消できないし自己で解決できるメンタリティも方法もないから、中に入って対話しても深みに入るだけで徒労に終わるだろう。多くの経験則上間違いないと思うから、自分が頑張ることでの後の結果が空しくなる」経験則なんかも並行するものです。

上記は自社の話ではありませんでいろいろ脚色した内容ですが、そのへんの話を客観的に打ち合わせなどで真摯に話を聞くとすぐに見えてきますし「ちゃんと成果と実績を出して話しないと、たぶん交渉や話し合いの土俵にもあげてくれないのになあ」とかを感じるものです。晩年秀吉さんわがままっ子ぽくなったような行動や言動や表現が多いのですが、それも秀頼のことや今後のことを考えて不安しかなかったんだろうと、そう感じますし、そこも含めて人間味あふれる部分にも感じます。農民百姓から天下を取るなんて通常できないので、針を売ったり、猿顔を極めたり、草履を懐に温めたり、しんがりを立候補したり、羽柴という名字を名乗ったり、本能寺の変後は最速で光秀を打ち破ったり、など、その若いうちからのにじみ出る苦労もあったんだろうと、すごく共感していますし、大阪市民なので大阪城は大好きですし秀吉さんも大好きです。

自己紹介

趣味はマラソン、サッカー。よく走り、よく蹴り、よく学び、よく仕事し、よく経営する。

常に明るく前向きに、夢を希望を抱いた経営を。

勤勉は喜びを生み、信用を生み、そして富を生む。人間の大切な徳。徳である限りこれを積むには不断の努力がいる。

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