
ここは田辺市扇ヶ浜海水浴場
祖父が赤いふんどしをつけて白浜を10キロ泳いだとか話を聞いたことあるまして、朱いふんどしはサメよけのためで大正時代生まれだったので軍人になるためだったのか、そもそもみんなそういうものだったのかわからないのですが。
ちなみに今でも臨海学舎を行っている学校がありまして、昔はこの田辺の扇ヶ浜で3キロ泳いだとか白浜で泳いだとか、そんな話を聞きましたが、これはもう素晴らしいの一言に尽きます。
完泳した後の満ち足りた笑顔と自信、この経験を経て大人へと成長していくので、やればできる必ずできる経験を積めることの幸せを羨ましく感じます。
またサポート支援や先生方などの安全に最大限配慮されてるだろう姿も、本当に素晴らしいと感じます。残念ながら母校の小学校では扇ヶ浜も白浜も近過ぎるので泳ぎたいなら勝手に泳げや感と、小学生で3キロあえて泳ぐような取り組みもなかったので、これはこれでまあそういう文化であって。ただ白浜の臨海学校は、コロナの時にはやっぱり中止だったようで実に残念でした。自分で泳いだ達成感もありますが、みんなでやり上げた達成感もまた本当にいいものです、軍人さん同士の会はみんな実に仲が良いとか聞いたことありますが生死をかけて死線をくぐってきた方たちの連帯感は想像でしかないですが、そりゃ生半可なものではないはずです。
関係ないかもしれないのですけど、大阪の上六にある清風さんでは清風から高野山まで100kmを30時間で歩くという行事を毎年しておられるそうでして、これもまた素晴らしいとしか言いようがありません。
世界遺産の聖地高野山というのもいいですし、学園供養塔が清風さんにはあるそうで、奥の院のあの厳かな雰囲気を感じるのもまたいいです。京大阪道を歩く感じのようですけど、途中の休憩もありながら30時間で歩ききることに大きな意義があると思います。
どうでもいい話になりますが、初めてのフルマラソンで丹波篠山フルでは、25キロ超えた地点で足にピキンという、筋を痛めた感じのあれをやってしまいました。ハーフ経験ばかりだったので肉体は素直だから、「ここで限界っす」と正直に反応してしまい、残り17キロをびっこ引きながら泣きそうになりつつ走り切り4時間後半で何とかゴールでした。
あと、高野山龍神温泉ウルトラマラソンでは、護摩壇山の頂上まで登り切り休憩しようとした途端同じく「ピキン」が来て、残り25キロくらいをびっこ引きながら何とかゴールしましたが、護摩壇山頂上だから後は下りだけだろうと考えたら降りて登って降りて登ってを以外に繰り返し、何とか何とか奥の院手前までゴールでした。ちなみにびっこひいていますが、歩くよりは早いので走ってる程度のスピードなのと、明らか痛いのですが「柔道の天才古賀さんは、吉田との練習中に怪我したけど金メダル。「僕がケガしたんだけど秀彦は心のケガを負ってしまった。だから俺は金メダルを獲るから大丈夫だ。お前も頑張れと言ったんです」」などと勝手に自分を天才古賀化しながら走るとまあまあ走れます。
この経験から「ピキン」来ても20キロは10キロ1時間30分ペースで3時間走行は可能、という自分なりの実証があるので完走までこじつけれるという「やればできる必ずできる」精神はついたと思います。
賢者は歴史から学びますが、ぼくのような凡人は経験からほとんど学ぶのでピキン後20kmは自分のパワーとしてあることは実証されました。またピキン後に20キロ走れ言われたら嫌なんですけど、セリヌンディウスのためにメロスが走るときのように、誰かのため何かのためにこの足が役立つのなら喜んで差し出したいとは思います。
コロナ以降なくなった高野山龍神温泉ウルトラマラソン、50キロでひーひーでしたが100キロという往復で完走する猛者ランナーがおりまして、上には上がおられ君臨されていますのでまだまだ。