紀州55万国は徳川幕府の御三家ですので、もちろん徳川家康公をおまつりしております。
家康公でいえば、75歳まで当時としては長く生きられたのですが日々薬を調合してたとか、てんぷら好きだから健康志向なのに天ぷら食べて亡くなったとかあるのですが、それよりもかなり大きな事件もあって。
長男の信康と正室の築山殿を殺さないといけなかった、事件の話です。
織田信長と同盟を組んでいたため、信康の嫁である五徳姫は信長の娘だったので、その五徳姫が不仲を信長に密告し話を聞いて信長が「長男の信康と正室の築山殿を殺せ」と家康に命令した話です。
同盟のためとはいえ長男と正室を殺すことはしのびないのが当たり前、ただ時代は戦国時代だったので泣く泣く家康は殺しました、という歴史の事実ですがこれはきついですし、そんな我慢と辛抱の連続でした。どうでもいい話ですが、ジャンプで掲載されていた影武者徳川家康では最後家康が死ぬ際に「信康!」と叫んで死にますが、背景がこのような事情があったためです。
古くから知っている歴史上の人物、大成功したような英雄扱いされているのが多いのですが、家康は長男と正室を殺してますし、その信長もうつけもので子供のころ振舞っていたので子守役の平手政秀が諫めるために自害してますし、本能寺の変ですし、伊達政宗は実母に毒を盛られてますし、父を殺さざるを得ない状況になっておりますし、修羅場の経験が違うことと背負っているものが違うんです。
紀州東照宮さん階段117段、はハードです。
徳川幕府でいえば8代将軍の徳川吉宗、14代将軍の徳川家茂は紀州藩ですが、歴史にあまり出てこない和歌山県なのでちょっと好きだったりしますが、徳川家茂は病気がちで少なくなるので出番が少ないんです。
この階段上った後の和歌の浦を望む景色は絶景なので、また来ます。
紀州東照宮の由緒
【祭神】東照大神 徳川家康公 南龍大神 徳川頼宣公
南海道の総鎮護として元和七年(一六二一)御創建、和歌浦一に名所の権現様と うたわれ当国随一の名勝として伝承されている。
関西日光の名に相応しく左甚五郎の彫刻や狩野・土佐両派の絵画等に荘厳された極彩色に輝く社殿は桃山時代の豪華な風姿を示す江戸初期の建築物として国の重要文化財に指定されている。
御鎮座式には勅使下向、慈眼大師天海大僧正が初代別当となり、以来約四百年の歴史と伝統は「権現様」として親しまれている。東照大権現とは薬師瑠璃光如来の神号で諸願一切成就・治病厄除開運の信仰深く全国よりの賽者は多い。
祭典としては、御創建以来伝承の「和歌祭」といわれる神輿渡御祭が毎年五月に斎行され、和歌山市全域は祭一色となる。