新藤さんは洞窟作った人で弁天さんも作ったらしく、辯天宗の智辯さんの方なのかなあということで銅像建ってました。まだ洞窟はできて50年くらいだそうでして。
智辯和歌山の智辯さん。
地元民ではあるので三段壁は自殺の名所という理解が強くて、その中でも口紅の碑という碑に書かれた言葉があります。
白浜の海は
今日も荒れている。
一九五〇・六・一〇 定一 貞子
若い2人は腹違いの兄弟だったらしく添い遂げることのできない無念さから、向こうの世界では一緒になろうと三段壁から身を投げたそうです。
三段壁はいちおう自殺の名所なのでいのちの電話もありますし、誰だかぜんぜんわからないのですけど自殺しようとしている人を見回りしている人もおられるそうでして、ちょっと心が傷ついたときに三段壁に行くと危ない気がするので行くべきではないと教えられてきたのですが、限りある命ですし生きてる人はほぼみんなあと100年すれば必ず向こうの世界についているので、限りある生を貪欲にいこうとも思うものだったりはします。
心理学なんかで言えば、アドラー心理学なんか有名ですし経営哲学要素もあるので、心理学や哲学に宗教なんかも絡む要素ではあるものの、死を選ぼうと思うこと自体は誰しも一度は経験なんかもありそうな気もします。実際に行動まではいかないにしろですが、それほど辛いことや悲しいことは人間何度も経験するものです。喜寿を超えた父母の年齢などになると話し聞けば母の友人でも「旦那に先立たれ、娘が先に逝き、妹が今年逝ってしまった」というようなことは聞くわけです。
昔読んでインパクトが強かった「夜と霧」のピーターフランクル博士の考えがすごくしっくり来るのですが、強制収容所での過酷な体験ほどではまったくないにしろ、20代前半は陽の目を見ない生活を送りましたし、起業なんかでも裏切りや焦げ付きやトラブルにコロナにいろんなことがあったりしたので、「苦難にも意味がある」であったり、「人生の意味とは、自分が人生に問うものではなく、人生から問われているもの」などの感覚が強くあったので意味付けが自分なりに納得できたこともあって、今行うこの仕事の意味や価値などを自分でなくもっと遠い部分から考えることができた気がします。
陽の目に当たらないこともまたよし、苦境良しです。とはいえ悩んだときには、ひたすら走り、肉をたらふく食べ、酒を浴びるように飲み寝るに限る、翌朝まだ解決していない場合、があまりないのですが自分なりに精神の区切りをつけることはすごく大事、と思いますし、悩んだときには誰かに話すのも大事であって、そういう人が1人でもそういう場所が1つでもあれば何とか耐えれるのでは、と。
機会あればまた再読します、フランクルがすごくしっくりきます。自分はどうしたいのかなんて考えても中にはあまり入ってないので出てこないので、「何を持って貢献できるのか」から考えたほうが価値が生まれるような気がしますので、このへんは価値あるものを提供できているうちはまだまだ。三段壁はいろいろ変わったけど、やっぱり命を落とすのは納得できないし生きてこそ、と常々思います。
新藤さんは洞窟作った人で弁天さんも作ったらしく、辯天宗の智辯さんの方なのかなあということで銅像建ってました。まだ洞窟はできて50年くらいだそうでして。