角川まんが学習シリーズの今回は真田幸村、真田の赤備え、赤い甲冑でかっこいいのと、真田の六文銭、六文銭は仏教の六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)で死を恐れずに戦うという不惜身命の覚悟を示したと言われてまして、実にかっこいいです。そして玉造から真田山のほうに少し歩いたところにある、真田丸顕彰碑、です。
織田信長49歳、西郷隆盛49歳、そして真田幸村49歳、私あと2年で49歳なので、人生もう残り僅かという儚さを感じてなりません。吉田松陰先生は29歳、坂本龍馬32歳、大久保利通47歳であって、織田信長が詠んだとされる「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」は、織田信長が好んで謡った幸若舞「敦盛」の一部ですが、後3年かと痛感します。
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信)親子は、高野山に流され、しばらくして麓の九度山 (和歌山 九度山町)に移った。
父昌幸は慶長十六年六月四日に 九度山で亡くなるが幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、 出丸を構築した
これが「真田丸」で、幸村は慶長十九年十二月四日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年 ~一七〇四年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸 「跡」として明示されており、それによると現在の大阪 明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての 面影は全く失われているが真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。
家康は家康で紀州東照宮であり、徳川吉宗八代将軍なので大好きですが、幸村の大阪夏の陣での戦いを改めて読み、幸村が最期を迎えた安居神社や真田丸のある真田山三光神社を巡ると、歴史の悲しさを感じるものです。目立つ赤装束で戦う気概と、十中八九負けることわかっていても戦いを挑むこと、戦国時代とはいえ人質人生を送り耐えに耐えることなど推察したり、ここ大阪で400年前にあった歴史を思いだすと幸村も好きな武将にならざるを得ません。
角川まんが学習シリーズ、今回表紙もかっこいいのですが、享年49歳です。