







死者を悼む気持ちはどの国の文化でも尊重されるべき普遍的な権利です。
しかし靖国神社が抱える固有の歴史的文脈が重なることで、「心からの供養」という純粋な思いと「政治的・外交的メッセージ」が同列に扱われてしまうもどかしさがこの問題の本質にあると言えます。
あくまで、「命を落とした祖先を偲ぶ倫理・習慣」の次元で来ています、もちろん私は民間の一商売人という最も身分が低い所でもあるので。御霊(みたま)を供養するという行為そのものは、本来人間として普遍的な哀悼の姿勢とも思うのですが、という色々ある中で、大阪護国神社参拝してまいりました。
盛和塾の稲盛塾長が帰依して、托鉢など行っていたのでそのへん興味を持って調べたりしたことあるのですが、利己と利他の考えで言えば。
自分以外の誰かや命のつながりに尊敬の念を抱き、静かに手を合わせる行為そのものが、自己の執着を洗い流し、精神的なすがすがしさや内面からの晴れやかな心地をもたらしてくれる、利他の思いを向ける時間だと。確かに迷いもふっと消えて「どうせ短い命なら精一杯燃やしきろう」という腹をくくった気持ちになるはそういうことかもしれません。
